大徳寺 (中野市)
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大徳寺 | |
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所在地 | 長野県中野市片塩871 |
位置 | 北緯36度44分40秒 東経138度20分26秒 / 北緯36.744384度 東経138.340483度座標: 北緯36度44分40秒 東経138度20分26秒 / 北緯36.744384度 東経138.340483度 |
山号 | 延命山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建年 | 1450年 |
開山 | 潙岸慶祐和尚 |
開基 | 通庵玄達和尚 |
中興年 | 1559年 |
法人番号 | 4100005005369 |
大徳寺(だいとくじ)は、長野県中野市片塩871にある曹洞宗の寺院である。小布施町玄照寺の末寺で山号は延命山。本尊は釈迦牟尼仏(木像)で室町時代後期のもので古い歴史をもっている。
概要
[編集]大徳寺の開祖は1450年(宝徳二年)、臨済宗建仁寺通庵玄達和尚。浜津山善昌寺といって現在の浜津ヶ池東端にあった。長野市松代町明徳寺三世鴻岸慶祐和尚が1559年(永禄二年)に中興開祖となった。1622年四世祐学和尚は寺号を大徳寺、山号を延命山と改めた。八世円了和尚時代まで明徳寺の末寺であったが、本寺を小布施町玄照寺へ移し現在にいたる[1][2]。
本堂
[編集]1719年(江戸中期)円了和尚のとき火災にあい、本堂庫裡を焼失。1724年(享保九年)当時平野村東江部の富豪山田庄左エ門がこれを再建した。1792年(寛政四年)十四世龍岳和尚の代にも火災にあい古書、宝物など焼失、本尊だけは残った。1810年(文化七年)庫裡を再建、1820年(文政三年)本堂が再建された。2011年(平成23年)本堂改修。現住職は畔上泰仁師で二十四世[2]。
歴史
[編集]- 1450年(宝徳二年) 臨済宗建仁寺通庵玄達和尚。浜津山善昌寺といって現在の浜津ヶ池東端にあった。
- 1559年(永禄二年) 長野市松代町明徳寺三世潙岸慶祐和尚が中興開祖となった。
- 1622年(寛永二年) 四世祐学和尚は寺号を大徳寺、山号を延命山と改めた。
- 1625年(寛永五年) 中野市草間に竜徳寺を建立、祐学和尚自ら開祖となり末寺とした。
- 1653年(承応二年) 六世祐春和尚同市新保に本光寺を建立末寺とする。 八世円了和尚の代に小布施町の玄照寺の末寺となる。
- 1719年(享保四年) 円了和尚のとき火災にあい、本堂庫裡を焼失。
- 1724年(享保九年) 当時平野村東江部の富豪山田庄左エ門がこれを再建した。
- 1792年 (寛政四年) 十四世龍岳和尚の代にも火災にあい古書、宝物など焼失、本尊だけは残った。
- 1810年(文化七年) 庫裡を再建。
- 1820年(文政三年) 本堂が再建された[2]。
- 1891年(明治24年)山門新築。
- 1979年(昭和54年) 鐘楼を建立。
- 1982年(昭和57年) 庫裡を改築。
- 2000年 (平成12年) 座禅堂を建立。
- 2011年(平成23年) 本堂改修。
境内
[編集]- 山門
- 本堂
- 鐘楼 - 毎日、午前6時と午後5時(夏は6時)に梵鐘を鳴らす。
- 座禅堂 - 毎月第三日曜日午前8時30分より座禅会を開催している。
- 庫裡
歴代
[編集]- 開祖 潙岸慶祐(いがんけいゆう)
- 二世 圓室是鑑(えんしつぜかん)
- 三世 漸室秀頓(ぜんしゅつしゅうとん)
- 四世 道岩祐学(どうがんゆうがく)
- 五世 中興文室芳學(ぶんしつほうがく)
- 六世 風外祐春(ふうがいゆうしゅん)
- 七世 快岩長恩(かいがんちょうおん)
- 八世 再中興皛名円了(ゆうみょうえんりょう)
- 九世 高巖松庭(こうがんしょうてい)
- 十世 月岑直笑(げっしんじきしょう)
- 十一世 瑞峯松祥(ずいほうしょうしょう)
- 十二世 再中興天桂錬石(てんけいれんせき)
- 十三世 千勇俊岳(せんゆうしゅんがく)
- 十四世 陽雲龍岳(よううんりゅうがく)
- 十五世 祥巖岳州(しょうがんがくしゅう)
- 十六世 中興白岑俊苗(はくしんしゅんみょう)
- 十七世 圓宗朴明(えんしゅうはくみょう)
- 十八世 祖嶽周禅(そがくしゅうぜん)
- 十九世 復興喚山蜜應(かんざんみつおう)
- ニ十世 大信良海(たいしんりょうかい)
- 二十一世 慈徳總雲(じとくそううん)
- 二十二世 - 大興文學(たいこうぶんがく)
- 二十三世 - 重興寛學智仁(かんがくちじん)
- 二十四世 - 畔上泰仁 (2015~)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 信濃の寺刊行会「専福寺」『信濃の寺』信濃の寺刊行会、1970年2月15日、59-61頁。
関連項目
[編集]- 大徳寺-曖昧さ回避